新穂近辺の縄文遺跡 大野出口
紀元前4000年新穂近辺の弥生遺跡 矢田ヶ瀬 棚田
紀元前300年佐渡の国造に大荒木直がなる
135年雑太郡を分けて佐渡を雑太、加茂、羽茂の三郡とする。
721年佐渡国分寺建立されると言う
764年同書に「大野郷」の名あり
935年瓜生屋善光寺沖城ノ前
1000年この頃、この地方一帯日吉の神領になったという
1000年順徳院佐渡に流される
1221年島内餓死多数
1472年秀吉佐渡に一国一城令しく
1589年佐渡三郡を羽田組(七十七ヶ村)、夷組(五十二ヶ村)、大野組(五十四ヶ村)、小木組(七十九ヶ村)に四分 夷町に代官所をおく
1604年天台宗新延寺天正中上杉景勝の指図により真言宗に改めたが、再び天台宗に復帰運動
1628年慶長検地刈高を石高に改め村々に渡す
1649年加茂湖凍結し十一月中旬より翌年二月まで牛馬を通すに危険なし
1682年この頃説教人形、のろま人形、京より新穂村に入るという。
1717年河原町に町並み造り、1月20日新穂町蔵之助家より出火 納屋三棟焼失
1729年国仲大凶作 餓死に瀕したる者一万 飢餓民一日一人五勺の米配付
1738年天候不良で穀物実らず、猿八、小倉、餓死数戸 町内でも飢渇者出る。
1755年町内飢渇人に役所に願出、米二石八斗六合を借受。
1756年町内飢渇人に役所に願出、米三石九斗借受。
1757年新穂町大野川筋 流失家屋五戸 死者一名 末社五社再建
1766年町内の飢餓人六八人ともなり、役所に願出米六石五斗三ケ月分とし買受、この代金十八貫文
1767年獅子の衣を一貫四百二十文でこしらえる。
1769年相川蔵米四石五斗を救助米として買受 一表(五斗)一貫100匁
1769年河原田本町宗悦が鬼面二ツ、神子面二ツ寄進という。
1772年九月二日広町長吉裏より出火 納屋三棟を焼く。
1773年山王神輿を七台とする事件あり。 (大宮・二宮を分けること)
1781年町内酒造家三軒 孫七、三四郎、吉右ェ門
1783年新穂広町新右ェ門桶小屋より出火八棟を焼く。 一月三〇日上町長三郎より出火 類焼なし。
1784年相川 家数一五五三軒 人数 九七四一人
1785年